2007年11月22日

「若葉空港」昔と今

忘年会とか新年会とか、チラホラそんな話が増え始め、
仕事内容も年末年始に関連する物が多くなって来て、
あっと言う間の1年をしみじみ実感しているzaki-nagaiです。

先日、同じくhama1のブロガーで有るseawallさんに、
「空港らしき物が写った上空写真を公開しているサイトが有るyo」と紹介して頂いた物を見てみましたが、まさしく若葉空港(飛行場)その物でした。

一部、その画像を抜粋し、現在の上空写真と並べて見ました。

(昭和22年上空から)

(昔と今、移り変わり)

(現在上空から)


昭和22年に、進駐軍が上空より撮影した物の様で、
戦後伊勢佐木町及び周辺がどんな状況になっていたのかを、一目で確認できる資料だと思いますが、
画像右上に有る橋は吉田橋、そこから左下まで伸びる道が伊勢佐木町と言う事になるのですが、
戦後直後は伊勢佐木町1・2丁目並びに福富町等は「外国人の町」と言われた様に、
進駐軍用の施設が建ち並び、また空地も自由に使う事の出来ない状況。
反面3丁目以降は「日本人の町」と言われた様に、一部が接収された物の、
多くの建物が再建されて商売が始められているが、それでも異彩を放つのが、
まるで景色を切り取るかの様に伊勢佐木町の直ぐ横を走る一本道。
アメリカ陸軍第8軍飛行場「EIGHTH ARMY TI&E DEPOT」。
この飛行場は昭和25年に返還されるまで、
主にセスナ機などの軽飛行機の発着場として使用されていました。
今の若葉町の本通りを丸々用いた物でした。

以下はその他の補足です。

滑走路(末吉町1丁目から長者町7丁目まで距離を測ると約500mだが、端から端まで滑走路として使えるわけではないので、進駐軍の小型飛行機は、若葉町3丁目(横浜日劇が有った辺り)から若葉町1丁目(ハイランドが有る辺り)までの距離約350mを滑走し飛び立った)
井上農園が有った場所(画像と記事)
オクダゴンシアター(洋画封切館で有ったオデヲン座は、接収されてオクタゴンシアターと名を変えた)
フライヤージム(巨大な米軍用の室内運動場は伊勢佐木町の中心地に建てられた(後に横浜公園に移動)
YOKOHAMA PX(空襲でも焼け残った野沢屋(後の松坂屋)は接収され、進駐軍用の百貨店YOKOHAMA PXとなった)
福富町・吉田町界隈は一帯が蒲鉾兵舎で埋め尽くされている
東小学校
今は大通り公園や、日の出川公園となっている地域も、この時期はまだ埋め立てられていない

(矢印は撮影方向)滑走路の端、若葉町3丁目附近。左の工事中の建物が元横浜日劇


滑走路のほぼ中心地点を伊勢佐木町側から。ここから東小学校までは徒歩で3分程度だが、飛行場が有り、迂回しなければならず、フェンスを潜り抜け飛行場を横断した児童も居た


昔、ここに空港が有った。
今の、伊勢佐木・若葉しか知らない自分の様な人間に取っては信じられないが、事実。
戦後長きに渡り、地域の大部分を接収され、多大な苦労を強いられながらも、
接収解除後たった10数年で、再び活気溢れる商店街として知られるまでに復活させた当時の方々。
今、元気が無いとも商店街は言われていますが、
当時の方々の奮闘を良い見本として、少しでも活気溢れる商店街の為に頑張って行きたいな、
と、そんな事を昔滑走路があった直ぐ脇の建物の中で書いてみました。  

Posted by zaki-nagai  at 18:05Comments(2)