2007年10月09日

anthology・・・ 偉大なる魂、偉大なる人々に

何か急に寒くなってきましたね。
ようやく、秋、といったところなんでしょうか?
先週引いた風邪が、まだ完全に治っておらず
ちょっと倦怠感のある、045-082(初代若旦那)です。


さて、今日は、根岸屋の話を。

前回、ウチの2代目若旦那が触れていましたが・・・・・
きっと根岸屋を知る世代は僕らが最後だと思うので。

根岸屋は、僕の記憶では、昭和55~58年に消失してしまってます。
当時、伊勢佐木町4丁目の1/4位の面積が消失してしまう大火事があり
その時に燃えてしまったんです。
夕刻から夜中にかけて、天まで届くような大きな火柱が立っていたのが
今となっては、ひとつの時代が終わったかのような印象と共に記憶に残っています。
(当時は、そんなことを思うわけもありませんでしたが・・・・笑)

横浜は港町。しかも戦後の動乱期には、アメリカ軍が駐留し
カオスとなった街。それが、僕らの街、伊勢佐木・若葉町。

街に興味があって、元々、爺さんや周囲の大人たちにこの街の伝説を聞いて
育った僕たちにとって、その象徴というべき施設が、根岸屋。
決して、良い話や健全な話ではないけど
数多くの伝説的な男達によって彩られた、横浜下町のカルチャー。
その舞台が僕らの街。
そして、僕らのDNAに組み込まれたアイデンティティ。

戦後、横浜の混乱期に、占領軍(主にアメリカ陸軍第8師団)の接収地だった
伊勢佐木町に、GI専用のお店として開店したのが、根岸屋の始まり。
兵士が集まれば、そこに群がる売春婦があつまり・・・・・・
この辺は、メリーさんの生涯を描いた映画「ヨコハマメリー」にも描かれている通り。
また、売春婦が集まれば、愚連隊や不良やヤクザさんが集まってきて、特に
後に四天王といわれる愚連隊のボスがたむろし、その不良たちを監視する警察が
お得意さんだったという信じられないお店。
イメージとしては、昔、香港あった「九龍城」みたいな、まさしく不夜城。
実際、24時間営業。ジャズと酒と喧嘩とクスリ、港町の
横浜でしか、昭和の伊勢佐木・若葉町でなければ、存在し得ないお店。
黒澤明監督の映画「天国と地獄」を地で行ってる、それが根岸屋。


うっすらと記憶になるのが、日本人客が酒を飲み、ステーキを食べている横で
GIがすき焼きを食べ、やたら広いお店の片隅で、ライブでJAZZを演奏してて・・・・。
トイレの前にイスを置き、誰かを待ってる中華系のオヤジさんがいたり。
多分、昭和53年か54年には閉店していたはずなので、僕の記憶は、本当に
3~4歳の怪しいものではありますが・・・。
この、カオスというか、ごちゃ混ぜなくくりがなんとも横浜らしいと思ったりします。

そんな港町、横浜の戦後は、今尚、その影響を残しているんです。
根岸屋がなくなっても、まだ、その異国、特にアメリカのカルチャーを
独自に解釈し、自分達のオリジナルにしてしまったのが、まさに浜っ子。


anthology・・・ 偉大なる魂、偉大なる人々に

anthology・・・ 偉大なる魂、偉大なる人々に

僕らの街から、クルマで10分のところには、まだ、アメリカ軍のハウジングが
残ってます。塀の向こうは、理想の世界。
景山民夫氏の「転がる石のように」の一説ですが
これが浜っ子の理想なのかもしれません。


横浜は歴史の浅い港町。
力のあるものが、街を仕切り、文化を育んできた街。
すべてが現在のように健全、合法の時代ではないにしろ
むしろ、そうであったからこそ、柔軟性と向上心、良くも悪くも、熱く、ス
トレートに生き、偉大なる人物、文化を生んだ街。

正直、臆病者の僕としては、アウトローになる勇気や根性もありませんが
その先駆者達の生き様やパワーを尊敬せずにはいられません。
そのDNAを受け継ぐ下町っ子としては、その歴史を学び、自分自身の生き方や
パワーを地域や仕事、人生に活かしていきたい。

第2の開港よろしく、次世代の新たなる下町のカルチャーを作れるような
人物、団体になりたいと、このABYの顧問として思ってます。

多くの偉大なる先人に、心からの感謝と共に・・・・・。

anthology・・・ 偉大なる魂、偉大なる人々に
夢の跡、「根岸屋」跡地。
この場所で、どんな人たちが出会い、どんなことを話ていたんだろう?
自分達が、名前も知らない、後世の人たちに語られるなんて、全く思ってなかったんだろうな、
きっと。

Posted by 045の082(初代若旦那)  at 13:06 │Comments(7)

この記事へのコメント
こんにちはぁ~。
とても興味深いブログですね。

昭和50年代というとそれ程昔のような気はしませんが~。
そんな時代にそんな遊戯施設があったなんて・・・・
港町だけにかなり異国雰囲気漂っていますね。
一昔前のアメリカを生まれ育った街で体験できるなんてうらやましい。

でも今は駐車場って・・・ちょっぴり寂しいですねぇ~
Posted by みなみ♪ at 2007年10月11日 12:19
みなみ♪さん>

おはようございます。

そうなんですよ、僕らが生まれ、本当に小さかった頃には
そういう、「チョイワル」的な雰囲気が漂っていたんですよ。
そして、その浜っ子たちが憧れ、夢みたのが、行ったことのない
アメリカだったのも。。
でも、夢見ていたのは、横浜の中に作られた箱庭というか、
ある意味、理想的なアメリカで・・・・・。
そんな話が、景山民夫氏の小説「転がる石のように」という本です。

確かに、中高、交換留学やら、北米研修旅行やら・・・といった
妙に国際関係の強い学校の卒業生としては
僕よりも1~2世代前の浜っ子の、アメリカに対する憧れや夢に
共感、理解していた部分が強かったと思います。

なので、実際に海外に旅をするようになって
景山民夫氏の小説、本当に納得し、今でも愛読書の1冊として
大切に保管してます。

ボブ・ディランではありませんが
「時代は変る」んですよね。
今は駐車場となってしましましたが、いつか、横浜を代表するような
娯楽や文化の中心になれるような、そんな街にしていきたいって
個人的には思ってます。
今はきっと過渡期。頑張らなきゃ!

追伸:
そういえば「転がる石のように」は原題♪like a rolling stone♪
ボブ・ディランの名曲でしたね。(笑
Posted by 045-082 (初代若旦那) at 2007年10月12日 08:48
こんにちは!
先日はお疲れ様でした。

横浜暦約十年の私にとって、とても興味深いお話です。
伊勢佐木や大岡川沿いを歩いては、映画や小説の中の深い横浜の歴史を
想像の中で噛み締めています。

色々な先人達の歴史があって、その思いを継承していく方たちがいる。
とても素敵なことですね♪。
Posted by seawall@MONAMOUR at 2007年10月15日 23:56
seawall@MONAMOURさん>

先日はお疲れ様でした。
黄金町の「青線」地区もそうですが・・・・・
基本的に、港町らしい雰囲気の下町だった訳で
今でも語られている伝説は沢山あります。

あくまでも個人的な意見というか、希望なんですが
このブログを書いているABYをの輪を、ドンドン次の世代に
つなげていきたい、と考えてます。

実際、街を見渡すと
現役バリバリの世代が50代、その次の40代の方があまりいなくて
次が、僕らの30代。
いろんな事情があるんでしょうが、そういう意味で、身近に相談できる
兄さん、姉さんみたいな環境、環を、このABYを中心にして
作っていきたい、と考えております。
身近な先輩がいて、それを後輩が見て、また下の世代に繋いでいく
これが街に生きる人間の、一番ベストな人間関係だし
町興しをする集団・組織としても、長期にわたり、その精神や
方法論を繋いでいく、最高の方法なのでは・・と最近、考えてます。

まぁ、長くなりましたが・・・・

とはいえ、まだまだな団体、組織です。
大きな夢を追いかけつつも、今の僕らの等身大でできる事を
1つ1つを確実に、丁寧にこなしていきたいと思います。
今後とも、何卒、ご指導、ご鞭撻、宜しくお願い致します。
Posted by 045-082 (初代若旦那) at 2007年10月16日 07:39
よくお調べになって、文章も読みやすいので
楽しく読ませていただきました。
私は、少し上の世代ですが、弘明寺ですから中心街のお話は
肌で感じるほど身近には感じられませんでしたけど、
とにかく横浜の暗い部分まで含めて全てを書いて下さっていることに
敬意を表し、好感を持ちました。

私は中学・高校が関東で、中区に同業者も多いので、
思春期以上の遊び場は中区でした。
もちろんガード下も行きましたよ。

これからも読ませていただきます。
よろしくお願いいたします。
Posted by あなぐま at 2007年11月15日 12:25
あなぐま様>
レス、有り難うございます。

この「空港の街」はABYという、地域の若手メンバーによって
運営されているブログでして・・・・・
自分達で調べながら、体験しながら、日々、リレー形式にて
記事を繋いでおります。

商店街が元気のない昨今、少しでも街に恩返しが出来れば・・・・
また、地元っ子の交流の場が出来れば、とはじめたのがキッカケです。

いろいろと調べていくうちに、自分が住んでいる街に
より愛着を持つようになり、そして、そういうメンバーが一杯いるから
本当に、楽しい・・・そんなグループです。

これからも、温かい目で見ていただければ、と存じます。
何卒、宜しくお願い致します。
Posted by 初代若旦那 at 2007年11月16日 21:30
この「根岸屋」の伝説を聞くにつれ思い出されるのは、10年前まで存在した東京・南千住駅前の「大利根」という大衆酒場食堂です。時代背景も土地柄も違うので、進駐軍、愚連隊なんてもの凄い客はいませんでしたが、目と鼻の先が泪橋という場所ですから、客は日雇い労働者や浮浪者は勿論のこと、労働者を食い物にしてる手配師にヤクザ、中核派にそれを監視する警察や公安(三菱重工爆破テロで有名な東アジア反日武装戦線メンバーもかつて出入りしてました)、在日朝鮮人や懐の刃物をチラつかせる不法滞在の中国人なんかが絶えず出入りしてました。そして、従業員は不法就労、または不法滞在の中国人女性ばかりで、客に偽装結婚を持ちかけたり、1分間スカートの中に手を入れさせて1000円なんてことをやってる女性もいました。横についてお酌やおしゃべりの相手をしてくれるのでこの中国人女性を目当てに通ってる客が多かったですね。元は栃木の女性刑務所の更生施設の一環として出来た食堂で、中国人以外の日本人従業員はかつてこの刑務所にはいってたおばちゃんばかりでした。
店の入り口は電車のガード下の薄暗い狭い間口でしたが、一歩店内に入ると、表からは想像も出来ない天井の高い100人は入れる広い店内で、壁にはびっしりと品書きの短冊が貼られていて、絶えず多くの客で賑わっていて圧倒される感じでした。焼酎の瓶で殴って血だらけなんて喧嘩も日常茶飯事。腕自慢のボクサー崩れや鳶、チンピラが幅を利かせてました。
ここも10年前に入管職員、警察官あわせて40名近くが一気にバスで乗り付けるという大規模な一斉摘発で閉店に追い込まれました。
Posted by 長文失礼します at 2010年07月30日 18:42
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