2007年11月18日

ダグラス・マッカーサーとは

こんにちは。。
季節の変化にちゃんと対応できず
どうやら風邪を引いてしまったみたいな、045-082(初代若旦那)です。

前々回の2代目若旦那の記事で、この伊勢佐木・若葉町周辺に
戦後、アメリカ陸軍第8師団のハウジング、及び滑走路があったことが
紹介されていますが・・・・・。

今回は、その第8軍を初めとした、連合国(占領軍)のTOP
ダグラス・マッカーサー元帥(フィリピン国軍元帥・合衆国陸軍大将)について
まとめてみたいと思います。


ダグラス・マッカーサーとは
(ウィキペディアから借用)


恐らく、長くなりそうな予感。(笑
何度かに分けて、お話をする事になると思います。
(まぁ、調べながらなので、どうなることやら・・・・笑)

で、ダグラス・マッカーサーは1880年アーカンソー州リトルロックの兵営内の宿舎で誕生した。
父親のアーサー・マッカーサー・JR中将は南北戦争の退役軍人で、後にフィリピンの
初代軍政総督を務めた人らしい。
その父の影響か、1899年にウエストポイント(陸軍士官学校)にTOPで入学し
1903年に陸軍少尉に任官し、卒業した。
彼の成績は群を抜いていて、彼以上の成績でウエストポイントを卒業したのは
過去に2名しかいなかったそうな。
そのうち、1人は南北戦争で名をはせた、南軍のリー将軍というのが凄い。
思うに、相当のエリートです、間違いなく。
(当たり前か・・・日本で言えば、防衛大学主席卒業みたいなものだもんね)

卒業後は、工兵隊少尉としてフィリピンに赴任。
此処から、アジア通といわれる、マッカーサーの輝かしい経歴が始まる。

その後、1905年、父が在日アメリカ大使館付武官になったことから
副官として、日本で勤務。
その後、アメリカに帰国し、第一次世界大戦では2回負傷し、15個の叙勲をはたす。
エリートでありながらも、現場型人間であったことがうかがえますね、ウンウン。

戦後は、史上最年少で少将に出世し、ウエストポイントの校長に就任。
1930年には、アメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任。
しかも、そのときの副官が、何と、後年、アメリカ合衆国大統領に就任する
アイクこと、ドワイト・アイゼンハワーだったというから凄い。
しかも、この参謀総長就任には、もの凄い逸話が残っていて・・・・・・
当時、参謀総長のポストは陸軍大将だったのだが、マッカーサーはあまりに
若かった為、(当時50歳)、就任当初は『大将待遇』となった、とのこと。
異例の出世だったことがうかがえますよね。。

1935年、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領との対立などもあり
参謀総長を退任し、除隊。(陸軍大将で退官)
フィリピン軍の軍事顧問に就任。その際、1946年に予定されていた独立時に
大統領就任が確実視されていた、マヌエル・ケソンから、『フィリピン軍元帥』の
称号を与えられる。
この称号は、マッカーサーのために特別に作られたもので、本人もかなり
気に入っていたようで、後年のアメリカ陸軍への復帰後も、
フィリピン軍元帥の制帽を着用していたとのこと。(上記写真の帽子です)

と、まぁ、戦前まででも、これだけの分量。
ちょっと重くなりそうなので、今回を含め、前代未聞の3回シリーズに致します。
次回は第二次世界大戦勃発から、GHQ司令官就任までを
まとめます。

しっかし、本当にエリートだったんですね。
イメージとしては、パットン将軍の様な、猛将だと思っていたんですが・・・。
それと、次回以降は、「野望」が見え隠れしてきます。
その「野望」とは、どんなものだったのか?
また、彼の占領政策、特に横浜での影響力はどんなであったか。。。
そんな点を中心にレポしたいと思います。

こふ、ご期待。

再逢・再来!!


Posted by 045の082(初代若旦那)  at 14:30 │Comments(0)

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