2007年11月27日

ダグラス・マッカーサーとは ②

寒い日が続いてますね。
045-082(初代若旦那)です。

さて、前回の僕の記事に引き続き、ダグラス・マッカーサーの人となりを勉強する
シリーズの第2弾。まとめてみたいと思います。

マッカーサー1944
(1944年撮影・ウィキペディアから)


尚、前回「ダグラス・マッカーサーとは」の記事はコチラです。
(誕生から第2次世界大戦前夜まで)



マッカーサーは1935年に、アメリカ合衆国陸軍を辞し、
フィリピン軍の軍事顧問に就任した。
退役した理由は、前回の記事にもまとめたとおり、色々な説があるのですが・・・
まぁ、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領と意見対立があった説が有力です。
しかし、皮肉なことに、そのルーズベルト大統領の要請を受けて
1941年7月、アメリカ陸軍に復帰し、フィリピン駐屯のアメリカ軍極東司令官となります。
大統領はマッカーサーをかなり嫌っていたらしいが、彼以上にアジアに詳しい
軍人がいなかった・・・というのが再任用の理由らしい。

そのためか、アメリカ陸軍に復帰の際のマッカーサーの階級は
「少将」で本人は不満だったらしい・・・・。
フィリピン軍では「元帥」、しかもアメリカ海軍のアジア艦隊の司令官が「大将」なのに
なぜ、「少将」と彼が感じたのは当然かも知れません。
陸軍きってのエリートだった訳ですから。。。

そして太平洋戦争開戦後、マニラを棄て、バターン半島とコレヒドール島で篭城する作戦を
とり、これがアメリカ本国で「英雄」として宣伝され。。。。
実際は日本軍からの攻撃を防御する、かなり切迫した状況だったようです。
アメリカ政府、特にルーズベルト大統領は、全軍の仕気に関わる、と考え
オーストラリアにマッカーサーを脱出させます。
それはそうですよね、「英雄」は殺せません、大統領としては・・・。
いくらキライな人物であってもね。

この時、マッカーサーは下記のように記者団に語ったそうです。
『私はアメリカ大統領から、日本の前線を突破してコレヒドールからオーストラリアへ行けと
命令された。その目的は、私の了解するところでは、日本に対するアメリカの攻撃を準備することで
その最大の目標はフィリピンの救援にある。私はやってきたが、また私は帰る』
この何気なく語った言葉「私は帰る(I shall turn)」という文句はフィリピン人にとっては
魔術のような力を持つ約束に聞こえたらしい。
この言葉は1つの火をともし、それが1つの象徴となって、フィリピン人はその周りに
不屈の精神を燃やしながら集まり、そして最後にはその精神の下で勝利と自由を獲得した。

(ダグラス・マッカーサー著 「マッカーサー回顧録上巻」から引用)

1942年4月、オーストラリアにて アメリカ・オーストラリア・オランダの連合軍西南太平洋方面総司令官に就任し
1944年10月に反攻を開始。1944年12月にはフィリピン中部のレイテ島に上陸。
戦場のスピーカーを通じ、
「フィリピン市民諸君、私は帰ってきた。わが軍はアメリカ、フィリピンの両国民の血で
清められた土の上に再び立ってる。全将兵よ団結せよ」
と放送したのは、あまりにも有名。
(I shall return) その後、1945年2月にマニラを開放した。

実は、このフィリピンへの反攻作戦は、アメリカ陸軍参謀本部や海軍では「その必要はなし」という
意見が大勢を占めていたそうです。
しかし、実行されたのは、一説には、ルーズベルト大統領が1944年に大統領選を控えていたので
国民に人気のあるマッカーサーの意見を飲んだ、という説。
それと、この頃からマッカーサーは大統領になりたい、という強い意欲を持っており
フィリピン反攻を許可すれば、マッカーサーが44年の大統領選挙への出馬辞退、という
密約がルーズベルトと出来ていた、という説があります。
いずれにしても、ルーズベルト大統領の意志、もしくは命令で動いたことに変わりなく
それだけ、マッカーサーの影響力が強かった・・・という事がうかがえます。


そして、1945年8月13日に、トルーマン大統領により日本占領連合国軍総司令官に任命され
8月30日14時5分、神奈川の厚木基地に愛機「バターン号」で降り立ち
占領政策がスタートします。
そのときの第一声が
「メルボルンから東京まで、思えばその道は長かった。長い長いそして困難な道のりだった」
コメントを残しています。

こうやってみてみると、マッカーサーは戦時中、その輝かしい経歴の中で
唯一の敗北、敗走を経験しています。
そして、政治、特に大統領への強い関心、野心が目立ち始めた時期でもあります。
恐らくは、エリート意識が強く、自意識過剰の人物であったことは、想像に難くありません。
しかしながら、「I shall turn(return)」のように、ある種のカリスマ性を備えた人物であったのでは・・・と
僕は考えています。

さて、次回は最終回。
占領政策、特に横浜との関わりあいを中心にまとめたいと思います。
  


Posted by 045の082(初代若旦那)  at 15:55Comments(0)