2007年07月25日

古写真を見ながらニヤニヤする

暑い!
気を抜けば即座に溶けてしまいそうなzaki-nagaiです。
でも、ようやく夏らしくてなってきましたね。

さて、今後の仕事にも生かされる部分が有るかなと思い、この地域の歴史をあれこれ調べたりする事があるのですが、横浜の歴史と共に歩んできたと言って良い伊勢佐木町。
現在でも様々な資料が残されていたりするのですが、特に日本でも指折りの繁華街と称えられた明治中期からは、街の賑やかな様子を写した写真も数多く残されています。
写真は主にポストカード等に用いられ、お土産や、遠方の大切な人へ郵送などされましたが、伊勢佐木町は当時より国際的な土地柄でしたので、そのポストカードが海外で見つかる事も珍しくありません。

そう言ったポストカード含め残された写真。
当時の街の様子を知る上で欠かせない資料なのですが、往来する人々の生活、服装、街並み等、
どの写真を見ても興味深い部分が多く、何時しか私自身、そう言った写真を眺めつつ、ニヤニヤしながら当時に思いを馳せる事が趣味となりつつあるのですが、そう言った写真の中で特にお気に入りの一枚を紹介させて頂ければと思います。


(クリックすると拡大します(約500kb))
上の写真は、今の伊勢佐木町3丁目(当時は賑町)、スーパーユニー前辺りから、関内方面に向けて撮影された物で、下の写真が大体上の写真と同じ場所で撮影出来たのではないかと思う現在の様子。



この古写真が面白いのは、当時の伊勢佐木町の賑わいが一目で分かるのと共に、写真が撮られた年や、当時の日本の一大関心事やら国際情勢までもが写真の中にキーワードとして散りばめられている事で、情報量がもの凄く多いのですが、説明できる範囲で勝手に説明してみます。

まずこの古写真が撮られたのは、1904年(明治37年)の季節は初夏辺りでしょうか、日傘を差している方が洋傘で有るのも印象的ですが、写真左奥、特徴的な塔の有る建物は喜楽座(現在の日活会館)と言って、1899年に誕生した(前身は両国座)、活動(映画)あり、演劇有りの当時の伊勢佐木町を代表する劇場の一つ。
その喜楽座の前のノボリに、当時上映していた物が記されていますが「日露戦争活動大写真」と言う映画。
映画と言っても音声などはありませんので、流れる映像に弁士が逐一解説を入れたり、時には小劇を挟み会場を盛り上げたりと言った物ですが、「日露戦争活動大写真」とは日露戦争緒戦の段階、旅順港内ロシア艦隊への閉塞作戦等の様子をまとめた物でしたが、日露戦争の真最中での上映と言う事で、その物自体が国威高揚に使われたと言う事だと思うのですが、日章旗含め、数多くの日本国旗が掲示されている事からも国家の一大事とも言えた日露戦争への注目度の高さが伺い知れます。
また、日本国旗と共にイギリス国旗が掲揚されてますが、日本は当時イギリスと同盟(日英同盟)を結んでおり、そう言った意味で、このイギリス国旗は、巨大な帝政ロシアを相手にする中で、何とも心強い存在だったのでは無いかと思われます。

数多くの劇場に戯れる人々、今は地中化されて存在しない電柱、広い空、ノボリ、人力車、当時流行していた麦藁帽子、道の真ん中を往く二人の警官。警官の前を歩くのは日本海軍兵士か、客船の船員か?海軍兵士だったら、この時期の直ぐ後にロシアのウラジオストク艦隊が、通商船破壊や威嚇等の為に東京湾の近くに度々姿を現し始めるので、その対応に追われたのでは無いか?「「猩々(しょうじょう) 印度之産」と言う旗が写真左方に下がっているが「猩々」とは中国に伝えられるお酒好きの架空の妖怪。昭和初期の記録ではっきりしないが、松竹梅酒店と言うお店が存在していたので、酒屋の宣伝に使用されていた物か?

全てを説明したら書ききれない位の量になりそうなのでこの辺で割愛しますが、昔の写真によって知る事の出来る当時の様子、そして現在の伊勢佐木町の様子とも比べ、どう街が移り変わってきたのか、その間の物語などをも考え、また何か今後の伊勢佐木町に関して生かせる事が無いか、極たまに何ですが、そんな事を考えつつ古写真をぼーっと、時にはニヤニヤと眺めたりしています。

※写真(ポストカード)は山下町在住の水町史郎様所有の物を借用し、データ化した物です。
本来の企画の方は、どん詰まりで練り直している段階で、こう言った形で先に紹介させて頂きました。

  

Posted by zaki-nagai  at 16:33Comments(3)